しなやかな日々のお便り


by gitanjali
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カテゴリ:【昔】小さい頃からの想い出( 8 )

母方の祖母

ふっくらと力強い体の背中が曲がりだしても、電話から漏れてくる祖母の声は相変わらずよく通る丈夫な声である。親戚中に羨ましがれる彼女の小顔は、何でも話し、昔は梅干しの種も歯で割るほど何でも噛む、怖いもの知らずの可愛らしさがいつも漂っている。

祖母は妹や弟の面倒見の良い姉であり、優秀な看護師であった。お菓子屋さんを開業する祖父を手伝いに、実家の福井を離れ大阪に出てきたが、商売は長く続かず、その後二人は八百屋さん「越前屋」を営むこととなった。

越前屋の二階部分に祖父母は住んでいた。二階に上がると廊下にでる前の踊り場が祖母の作業場。薄ぐらい光が射す窓の下に、使いこなされて木目がぼこぼこしている木の机と蛍光灯のランプがあった。錆びている鉄の大きなハサミや古着やぞうきんのハギレ、いらないボタンがいっぱい詰まっているビンやゴムでとめてある白っぽいノリの袋がいつでも使えるように置いてあった。

祖母は針仕事や編み物が得意で、いらなくなった着物で洋服を作ったり、カーディガンをベストにして残った生地で鞄を作ったりした。私と妹が子供の頃は、黄色やピンクの花がらのお手玉を作ってくれたり、今でも私の部屋に飾っている親指ぐらいの小さなキューピー人形に洋服を編んでくれたりした。ふぅむふぅむと息をしながら口で指先を濡らして糸を結び、歯で糸を切る祖母の姿はどこか頼れるところがあって安心した。さすがに最近は細かい仕事も難しくなってきたようだが、それでも毛糸で可愛らしい食器洗いのスポンジを編んでくれる。

廊下のつきあたりの部屋には食卓があり、その隣がキッチンであった。南に向いているダイニングの窓は風通しが良く、そこから越前屋の日焼けした朱色の屋根を見下ろせた。祖父は重い虫眼や筆ペンと新聞広告の裏紙を近くに置き、キッチンに立つ祖母からよく見えるテーブルの壁際の椅子に、窓を背にして座っていることが多かった。

キッチンの鍋はどれも大きかった。祖母は越前屋で売るお惣菜も作っていたため、料理する量が半端ない。母が嫁入り道具としてお鍋を買い行った時、彼女の選ぶ鍋の大きさに友達がびっくりして、何人分料理する気なの?!と驚いたらしい。

母が入院しているある日、祖母は私の注文しすぎた人参を冷蔵庫に発見し、こんなたくさんの人参どうすんの?!、とびっくりし、せっせと人参を千切りにして鍋いっぱいのきんぴらにしてくれた。量は多かったが、十五本以上の人参を腐らせることなく父と妹と三人で食べきることができたので感謝した。それ以来、冷蔵庫に人参が残っていると、私は直ぐにそれをきんぴらにしてしまう。

祖母の手料理は母の味より濃い目ではあったが、私の舌の記憶には懐かしく残るものが多い。夏の暑い日に食べる、シャーベットのように凍らせてある南京かぼちゃと小豆のいとこ煮は特に絶品であった。また、盆踊りの後に用意してくれていたそうめんも大好きだった。そうめんなんて料理に入らないと言われるかもしれないが、祖母お手製の干し椎茸が少し出汁を出し過ぎた麺汁が美味しいのである。

少し前の夏、お昼はそうめんにしようと決めたある日、紀伊国屋に買い物に行った。そうめん汁の値段が高いので、麺汁は家にあるそば汁でいいじゃないかと友達は言ったが、家にあるそば汁には椎茸の出汁が入っていないからいやだと言い張る私をしつこいと怒って、その人と始めて喧嘩したことがあった。帰りの車の中で、冷静になって考えてみるとそうめん汁に椎茸の出汁が入っている必要は特にない・・・祖母の味が恋しかっただけだ。

食べることが好きな祖母は、料理だけでなく、野菜やお花を育てることも好きだ。越前屋をやめてから住んでいる団地の菜園では季節の野菜やお花がいつも元気にしている。しそ、オクラ、トマト、春菊、茄子、きゅうりと色とりどりの野菜が育っている。一昨年前の十月に私は祖母に相談して、空豆を種から植えることにした。その冬、私は何度か祖母に電話をして、空豆の成長を報告したり、空豆が寒さを乗り切るための工夫を教えてもらったりした。

季節が少しずつ変わっていく中、私と祖母の関係も何か新しいものへと変化していった。会社の昼休みや仕事帰り、時には次のお客様との打ち合わせまでの空き時間に、私は祖母に電話をして、特に用事がなくても緑の子たちの成長や季節の変わりについて話をするようになった。

最近、友達にこのお話をしたとき、孫の成長だね、と言われてちょっと嬉しかった。

* * *
“You do not really understand something unless you can explain it to your grandmother”
- Proverb
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by gitanjali | 2009-04-10 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

母方の祖父 II

祖父はほりが深く、肌が濃く、甘えのない引き締まった身体つきであった。祖父の小学校時代の写真集には、セピア色に染まっている和服を着て並ぶ坊主の中に、ひと目で祖父と分かる男前な輪郭が写っている。整った顎におさまっている細い唇は、常に何かを考えているように見えても言葉数は少なく、静かにしていた。ゆっこちゃんはかわいいなぁ、ゆっこちゃんはあたまいいなぁ、といつも優しく繰り返して頭をなでてくれた。

でも何か気になることがあると、飛びついてくるかのように祖父の言葉は突き刺さってくる。ケーキに飾るキウイフルーツを皮むきでひいている時、もったいない!、と祖父の一言で全身にヒビが入ったかのようにびっくりしたことがある。何事にでも言い返す技を幼いころから身につけてしまっているはずの自分を忘れ、怒ることのない祖父のお叱りの言葉には一生懸命に謝りたくなった。何がもったいないのかさっぱり分からなくても、涙がでるほど心が痛んだ。
泣きそうな顔をしている私に祖父は包丁を持って来なさいと言った。果物ナイフを持ってきた私のもう片方の手からキウイフルーツをとり、祖父は丁寧にその皮を剥きだした。それは素晴らしく薄い、美しいキウイフルーツの皮であった。その日以来、私は必ずキウイフルーツの皮を果物ナイフで丁寧に剥くようになった。

祖父母は八百屋さんを営んでいたが、祖父は昔、お菓子をつくっていた。このことを始めて知った時、それはあまりにも自然過ぎて微笑んでしまった。三ツ矢サイダーと雪印のコーヒー牛乳を冷蔵庫に常備していたり、ぼんたんあめをポケットにいれていたり、あんパンを買いに突然消えてしまったりする祖父は、誰の目から見ても甘い物好きであった。

キウイフルーツで怒られた日、一生懸命と無駄に頑張っている私にしぼり袋を寄こしなさいと言い、祖父は波を描くようにシフォンケーキを綺麗にホイップで飾ってくれた。料理なんて大人になればいつでもできるから、と母親に言われて育った私にとって、お菓子作りはなおさら関心を持ってはいけない大人の世界であった。でも私は梅田の阪神百貨店の地下で、白い帽子と服を着たパティシエが洋菓子を作っている秘密の世界をガラス越しで息を静かにして眺めるのが好きな子だった。身近にいる人が―それも自分の祖父が―その禁じられた世界の魔法を披露できると知った喜びと、確かな腕を自慢しない職人的な祖父の表情を今も忘れることができない。

器用な祖父の右手の中指の先は、薬指の方向に曲がっていた。その曲がっている骨を私はいつも優しく慰め、口づけしたくなった。哀れに思われている指を全く気にせず、祖父の手はそこらへんにある薄い板に干支の動物を筆で描いたり、新聞の折り込み広告を使ってみかんの皮を捨てる箱を次々と作ったりした。

祖母も洋服や鞄を作ったり、セーターを編んだりと器用ではあったが、見た目も性格も祖父の正反対と言ってもいいであろう。いや、相手にかけている部分をお互いが補おうとして、徐々に正反対の性格になっていったと言っても可笑しくない。正反対の二人であったからこそ祖父と祖母は「人」という字を書くようにお互いを支え合って生きていた。

祖父は生まれて直ぐにお母様を亡くし、お姉様に育てられた。そのお姉様もこの世を去ってしまった時、兄夫婦が祖父を家に迎えてくれた。そのお家には、祖父と同じ年頃の子どもがいて、いつもお饅頭を食べさせてもらっていた。羨ましがる子供心で、大人になったらお菓子屋さんになりたいと祖父は決めた。

祖父の親戚が祖母のことを大変気に入り、戦争中であったが祖父は結婚のために中国から帰国し、幸いなことに日本で終戦を迎えることとなった。戦後、祖父はひとりで神戸のモロゾフや新宿の中村屋で修行を重ねた。大阪で商売を始める準備ができてから、看護師をしていた優秀な祖母は誇りに思っている仕事と実家の福井を離れ、祖父の饅頭を売り歩いた。

しかし、まだ甘いものを食べる贅沢のできない日本で、祖父母は饅頭で食べていくことができなかった。その時生まれたのが、母親が育ち、幼い頃は姉妹でよく遊びに行った、八百屋さん「越前屋」だった。

* * *
“Do you know what friendship is?” he asked.
“Yes,” returned the gipsy. “It is to be like brother and sister; two souls that touch without mingling; two fingers of the same hand.”
“And love?” proceeded Gringoire.
“Oh, love,” she said, and her voice vibrated and her eyes shone, “that is to be two and yet only one—a man and a woman blending into an angel—it is heaven!”
  - Victor Hugo Notre Dame de Paris
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by gitanjali | 2009-04-08 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

母方の祖父

シャンゼリゼ通りをエトワール凱旋門に向かって歩き、細い道を右に登ったところにはモダンなパリを忘れさせてくれるHotel de Vignyがある。

ロビーの油絵に眠る裸の男女の体を、白いレースのカーテンから入ってくる日曜日の日差しが優しく暖めていた。昨年の夏、その裸体の曲線を目で追いながら、パリに無事に到着したことを家族に知らせるために日本に電話していた私は、父に母方の祖父が亡くなったことを知らされた。

到着したばかりの異国において、いつも私の頭や手をなでながら可愛がってくれていた祖父の存在を突然近くに感じた。愛する人がいなくなると、天に叱られるような、心身共にさらわれる苦しさと虚しさしか残らないと思っていた。お天道様に身守られるような、安らぎの気持ちが訪れるとは、不思議でしょうがなかった。

愛される人が愛する人をなくすことはこんなに素敵なんや。
祖父への感謝の涙がとまらなかった。

* * *
“The greatest happiness of life is the conviction that we are loved -- loved for ourselves, or rather, loved in spite of ourselves.”
  - Victor Hugo
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by gitanjali | 2009-04-07 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

温かい冷たいパスタ

中学校と高校の修学旅行
6年生の夏、箕面の山でキャンプ
7年生の夏、広島と宮島
8年生の夏、天橋立
9年生の夏、長野にスキー
10年生の夏、11年生の夏、(あれ、どこにいったかしら?)
12年生の夏、Habitat for Humanityでフィジーに家を建てに行く

昨日のブログで「キャンプのパスタ そうめんと間違えてパスタ麺を冷やさない人」と書いたのは、6年生の夏のこと・・・

箕面の山にキャンプに行った夏の夜、夕飯はミートソースパスタであった。
「パスタ茹で担当」の私は時間どおりにパスタを茹で、大きなザルにそれをあけた。
そして何を考えていたのか、
先日、そうめんがのびないよう、茹でた後に冷水で冷やしていた私は、無意識に水道の栓をひねり・・・
「ゆっこ!なにしてんの~!」 誰かが叫んで、びっくりしたぁ
湯気の立っているパスタに私は平気な顔で冷水をかけていたのだった
「え、のびないように冷やすんじゃないの?」
「なんでやねん・・・」

結論→ クラスの男子が我慢して温かいミートソースのかかっている、冷たいパスタを食べてくれた(どうかお許しください、十何年も経った今でも、思い出すだけで鳥肌が立つわ、涙)

まぁこんなことがあったり、初めての彼氏のお家でひじきの煮ものを作ろうとして、ザル大盛りに入っているひじきを派手に床にひっくりかえしたり・・・料理のセンスが疑われることが今まで何度もありました

幸いなことに、美味しいお野菜やご飯好きの友人に恵まれ、たまにはシンプルな手料理で友達をお家に呼べるぐらいに成長しました、笑

(ちょっと恥ずかしいのですが、先週末遊びに来てくれた友人がブログにブランチの写真を載せてくれました ^^)

えみちゃんのブログ
http://ameblo.jp/gt22/entry-10235428764.html
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by gitanjali | 2009-04-03 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

父方の祖父

大阪の家は父方の祖父なきに語ることはできない。

大阪の家は福島区福島にあった。江戸時代には中津藩蔵屋敷で福澤諭吉が誕生した地であり、明治以降には中小企業の工場地帯となり松下電器産業が創業した地でもある。現在では印刷・製本工場や、自動車部品などの卸業者が多く立地している。私の祖父は自動車部品を修理する機材を扱う会社を営んでいた。

祖父は奈良の百姓の次男坊。小学校入試の面接が終わった時に、校長先生が片手に飴ちゃん、片手に十円玉を差し出し、どちらか好きな方をお土産としてあげると言われた時、祖父は迷わず飴ちゃんを選んでお母様に叱られる子供だった。十円玉で飴ちゃんがいくつも買えるではないか。

「光治さん」と祖父はいつもお母様に呼ばれていた。世の中には大きな子供のような大人がいるが、子供はみんな小さな大人として生まれてくると考え、子供であることを決して甘くみないお母様であったに違いない。

次男坊であった祖父のために、小学校を卒業してから働く先を探していた祖父のお父様は、まだ卒業していない彼を連れて生駒山の大阪側にある石切さん(石切神社)に行った。二つの働き先で悩んでいたが、祖父は将来「速いもの」に恵まれるであろうと伝えられ、十三歳の祖父はひとりで家族を離れ、満州の自動車関連の会社に勤めることになった。

祖父は寒いところが好きだった。何でも掴みそうな大きな手は、いつも温かかく、その手に合わせて、顔も、耳も、声も大きかった。でも、奈良の小学校の校長先生と大阪の港で別れを告げ、ひとりで満州に船で渡った祖父はまだ小さかった。大連の急な坂道で重たい荷物を縛り付けた自転車をおせなく、自転車と一緒に下に引きずられそうになっているところを通りがかりの大人がいつも助けてくれたそうだ。

満州で大人になった祖父は、第二次世界大戦とともに兵隊になった。中国語が話せて、現地の寒さに慣れている体の強い彼は、満州の一番北の方、ハルハ川の流れるノモハン近くに行かされた。零下三十度の極寒のこの地で、祖父は一度ズボンに小さな穴があるのに気づかず、凍傷しだした部分から足が腐らないように切断を医者に勧められた。枯れ葉になる自分を想像する恐ろしさ、それに少しも動揺しない医者に腹を立てたであろう。幸いその夜、一晩かけて彼の足をマッサージしてくれた女性の方により、彼は今も強い足がしっかりと二本ある。

一九四五年の夏、ハルハ川を越えてくるとされていたソ連戦車の下に梱爆を抱えて飛び込む自爆攻撃の訓練をしていた祖父と仲間は、一番上等な兵隊服を着て全員集合するように命じられた。その日、ラジオから聞こえてくる高い“声”が告げるのは終戦であった。

奇跡的に帰国した祖父は、自動車関連の会社に勤めることになった。妻と子供がいてもよい歳であったが、営業実績がどんなに優秀でも一年目の若い社員と同じ給料しか貰えない彼には、家族を養う余裕はなかった。

祖父はひとりで起業することにし、大阪の福島から奈良・和歌山・兵庫・京都を自転車で営業した。私が小学生の頃、昭和の道に鍛えられた自転車に座布団を縛り付けて、大阪の福島から箕面まで片道二時間かけて来た祖父が平気な顔でいたのは、この時の経験があったからであろう。

自転車で毎日働きに出かける祖父が大阪の福島の街を走っている時、「ちりんちりん~ちりんちりん~あいつまた走っとるや~」とよく馬鹿にされた。でも祖父は休日も、雨の日も、自転車で必死に営業し、会社を成長させ、一階が暗い倉庫の大阪の家を建ててくれた。

* * *
“We are made wise not by the recollection of our past, but by the responsibility for our future.”
- George Bernard Shaw
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by gitanjali | 2009-04-01 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

大阪の家

先週末、桜並木に沿って成城の住宅街を散歩していた
立派な大きな屋敷が肩を並べ、腰を降ろしている
その一軒一軒の主張が強すぎて、どうしてか心が落ち着かない
家は自慢するものではないと思うからかもしれない

昨年末に壊した家は祖父が戦後に大阪の福島に建てたものである。一階は真っ暗な倉庫で、外が薄暗くなってから帰ると、私の幼い心臓は必ず一瞬跳ぶ。おばけなんかは信じない、でも暗闇になにかが潜んでいるかもしれない。倉庫の奥には二階にあがる階段へのドアがあり、いつもそこまで走った。走るほどの距離ではないのだが、私はとにかく怖くて焦っていた。

二階にあがる階段は優しいものではなかった。上る人は前の段差に手をつけて登り、下る人は横になって一歩ずつ降りないと危ないほど、急な階段であった。階段のうえの低い壁には、昭和のお菓子についてきそうな変な色あせたシールが貼ってあり、何十年も踏まれてきた人間の足に対抗するかのように木の階段はぎしぎし鳴いた。祖父の重い体のぎしぎし、父親の注意深い足のぎしぎし、母親の慣れたスリッパのぎしぎし、または妹の軽い裸足のぎしぎしで、誰が上がってくるかがだいたい分かった。

(5歳の時に、階段がカーペットでできていて、おしりをすべらせながら降りられるボストンの家から帰ってきた私は、この遊び心のない階段を見て大人にならないといけない気持ちになった。)

我が家の住まいであった二階には五つの小さい部屋があった。テーブルがひとつおける程度のダイニング、六畳ほどのリビング、アルファベットの壁紙で飾られた子供部屋と、子供の私はほとんど足を入れることのなかった大人部屋(親の寝室)と嫁入りの木彫り洋服ダンスがいっぱい詰まっていた畳部屋。

階段を上がったところがダイニングで、そこには松ぼっくりがぶら下がっている小鳥小屋の時計があり、クックークックーって小鳥が毎時を知らせるために顔を出して歌った。リビングにはいつも夕食後にABCNewsを見ていた黒いテレビがあり、両親の小物が入っている棚のガラスには私が幼稚園の時に書いた大きな橙色のカボチャの絵が飾ってあった。

子供部屋にある二段ベッドの上が私で、下が妹。白い天井に向かってお城に登っていく気持ちが毎晩嬉しかった。そして時々、妹が寝ている下の段にシーツのカーテンをかけて、妹とこそこそおしゃべりして、遊ぶのが好きだった。

私は小学校4年生まで、大阪の都心にある、このこじんまりした家に住んでいた。その頃の身長は140cmぐらいだったのかな。今の167cmになって、もう無きこの大阪の家に帰るたびに、私は声には出せず心の中で、なんと狭いところに住んでいたのだろうと何度も思うことになる。

家に入るときに通りかかる人は、こんなところに人が住んでいるのかぁと困ったような顔で灰色の外壁を眺めながら、入口を開けた時に見える暗い倉庫を不思議そうに見て見ないふりをして歩いた。私は中の倉庫が見えないように、というよりかは自分の顔が見えないように、さっさと中に入って鍵を閉めた。

人の目に触れると、確かに恥ずかしかった。でも私にとってこの大阪の家は、一生懸命に働いてきた祖父と、教育にお金はかけるけど贅沢のしない我が家の象徴であった。

* * *
“It is only with the heart that one can see rightly; what is essential is invisible to the eye.”
-Antoine de Saint-Exupery

GEORGE WINSTON / Longing Love
http://www.youtube.com/watch?v=-s9NeFSHecE
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by gitanjali | 2009-03-31 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

パパのサンドイッチ

父はほとんど料理をしない
母が家にいないときはパンをトーストして、ツナ缶とチーズと一緒に食べる人である

でも不思議なことに、幼い私と妹の美味しい想い出は多分ただひとつ
それは、父がボストンで作ってくれたサンドイッチ
どんな野菜が入っていたのか、どんなパンをつかっていたのか
いつ、何処で食べたのかは全く覚えていないけど
「パパの作ってくれたサンドイッチが美味しかった」
それだけを今でも体が覚えている

大切な人がつくってくれる手料理
愛する人のためにつくる手料理
世界一の宝物だと思っている

Love and Cook with Reckless Abandon

***
今日は自由が丘で山椒のすりこぎを購入
私のベランダにいる山椒の苗はとてもスリム
でも、このするこぎは手で握れるしっかり者

夜はマンションの向かいにあるのに、今まで一度も行ったことなかったアンティークなCafe6へ
優しい味のえびとトマトのリゾットと元気がでるカシスシャーベットを頂戴しました
アンティーク物をいっぱい置いているお店は居心地が良く、お店の置物すべてに時間が育てた風味があるね

Café 6 @自由が丘
http://sixchome.exblog.jp/
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by gitanjali | 2008-08-02 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出

心はどこにあるの?

Do you know where the heart is? The heart is a bit to the left
No! It’s in the middle!

5歳、ボストンのモンテッソーリ幼稚園
休み時間に走り回りすぎて、階段ではぁはぁと息切れになっていた
先生は心臓をおさえている私に言った
「Do you know where the heart is?」
すぐに返事できなかった私の代わりに彼女は答えた
「The heart is a bit to the left」
鼓動と同じスピードで頭がフル回転し、私は必死になって言った
「No! It’s in the middle!」
右手でしっかりと自分の真ん中にある心に手をあてながら、
自分の信じていることをはっきりと言ってみた

自分を信じ、愛する人を信じる
So, love deeply and passionately. You might get hurt but it’s the only way to live life completely.

***
今日は有元葉子さんの料理本と金塚晴子さんの和菓子本を購入
心と体の喜ぶ手料理をまたおもてなししていきたいです
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by gitanjali | 2008-08-01 00:00 | 【昔】小さい頃からの想い出